日 時 :2018年3月28日
場 所 :如水会館 14F 記念室東 S38年入学会 3月度定例会
講 師 :佐藤征男(H)
<42年会・ サクラに逢う>
1、サクラの基本樹種(自生種)
- エドヒガンをはじめとして、まずはヤマザクラ、オオシマザクラが挙げられる。カンヒザクラは台湾、中国南部から導入されたという説がある。早咲きのサクラとしてかなり広く見られる。
- 他に寒冷地に適応したオオヤマザクラなど6種があるが、野生のものが見られる地域は限られる。
基本的な3種 サクラの識別のポイント1
- 葉芽と花芽どちらが先に咲くかはサクラの種によって違う。
ヤマザクラ 花と葉が同時に展開し始め、葉は赤いか赤味を帯びる。写真01
エドヒガン 長寿で、大木になる。葉が展開する前に花が早く咲く。
枝垂桜はエドヒガンである。写真02
オオシマザクラ 花と葉が同時に展開し始め、葉は緑でヤマザクラとの区別点。写真03
2、日本人好みのサクラ
- 古代では恵みをもたらしてくれる「山の神」が信仰の対象になった原始的な山岳信仰があった。
6世紀前半仏教伝来とともに在来の神々は仏教などとも習合し、修験道として今も伝わる。 - サクラは恵みをもたらす山から下りてきた聖なるものである。古来、もっとも親しまれてきたサクラは山に咲くヤマザクラに違いない。
- 人々は恵みをもたらす山からサクラの苗を持ち帰り植えた。信仰の対象の周辺にヤマザクラを植えた。サクラの開花は農業暦に組み込まれ、花は「秋の稲の出来具合を予兆するものと考えられた」と民族学者折口信夫は指摘している。花が少しでも長続きするように、花祭りも行った。
- 神事に捧げたのが「酒」。人々は飲み、歌い踊り祈った。これが花見の起源。
- 「サ」は神聖な植物の笹や、地名の相模をはじめ、「五月」に「早苗」を「早乙女」、「酒」を「盃」に注ぎ、「皿」に「肴」をのせて、捧げる。「クラ」は「倉」であり「蔵」。神聖なものがたくさん潜んでいた。
ヤマザクラ
- 花と同時に葉が展開し始め、新葉の色が赤みを帯びているので、独特の風情がある。写真01
- 野生のサクラは種子で増える。そのため開花期、花の色、若芽の色なども個体ごとに違いが生じる。
一つ一つの個体は個性的。なぜ個性的か。自家不和合で遺伝子の組替えが自然に行われるからである。
自家不和合
- 多くの植物は同じ花粉であっても、自己と同じ遺伝子をもった花粉は授精できない。この性質は近親交配による悪い影響を避け、種の多様性を維持していくために重要な性質。サクラはこうした自家不和合性が強い。
3、古代のサクラの展開
- わが国の伝統的詩歌で花といえばサクラをいう。ところが『万葉集』にはウメに関する歌が119首もあるが、サクラは50首に過ぎない。
- 平安時代になると奈良時代以来の紫宸殿の左近のウメがサクラに植え替えられた。『枕草子』についてみると、サクラの花が一般民衆の花として取り入れられていったことがうかがわれる。
- 信仰の花だったから、サクラが大衆の花であることは、すでに古代からその兆しがあった。
4、群桜の高揚 吉野のヤマザクラ
- 吉野山の金峯山寺蔵王堂。山岳信仰である修験道の総本山である。役小角が金峯山寺を開くとき、感得した蔵王権現をサクラの木に刻んだという。もともと山岳信仰と結びついたサクラである。
吉野山に一般庶民も含めて多くの人々が吉野山に詣で、苗の寄進が続いた。伝説の群桜の形成である。 - 吉野のサクラは下千本、中千本、上千本、奥千本へとおよそ一月かけて35000本が絢爛に咲き乱れる。
- 壮観な群桜に見せる仕掛けがある。それは開花に合わせるかのように展開する新葉だ。赤みを帯びた新葉は遠目には花のように見える。しかもその一様でない赤色は、全体の色彩に変化を与える。
- 個性的なヤマザクラは開花時期のタイムラグが糊代となって、「下」「中」「上」「奥」へと開花がスムースに移行していく。散る美しさより、続けて咲く美しさの方を重視したのだ。写真04
- 平安期末に西行が登場する。佐藤義清(のりきよ)と名乗る武士であったが、23歳で突如発心し出家。
- 出家後、吉野の山奥に庵を結んだ。春のこの時期、西行はサクラの真っ只中にいたようである。
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねん 西行 - 西行まだ見たことのない美しい桜を求めて、西行は奥千本から広がる修験の神域に分け入った。
時に、サクラの花びらが風に吹き上げられ、桜吹雪に包まれた。ふと奥千本の谷に目をやると、上千本の桜の花びらが流れているのが見える。あの花びらは峯を越えるのだろうか。
吉野山花吹き具して峯こゆる嵐は雲とよそに見ゆらん 西行 - 役小角は落下の花びらのかたまりを見て、蔵王権現をイメージしたのかもしれない
- 京都の桜守の佐野藤右衛門さんは「山桜の花びらはソメイヨシノの花びらの何倍も薄くて軽い。そやから、風のない日にも気流に乗って、どこまでも流れてゆけるのや」という。
谷深く尚わたり居る落花かな 高浜虚子 - 散ってなお、ただただ生を謳歌する山桜。眼前に落花が今、記憶を辿るように生命の谷を渡る。
- 西行は建久元年(1190年)旧暦2月16日、満月の夜、今を盛りと咲く桜のもとで、73歳の生涯を終えた。死すら桜に包まれるという、輝きがある。吉野の群桜こそ日本人の精神性を表出したサクラである。
仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人ととぶらはば
願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃 - 鎌倉時代となると政治や文化の中心地が移った。ますます、園芸文化が花開いていく。
5、一本サクラの広がり
エドヒガンは大木になり、1本でも大いに存在感がある。しかも大きく枝を広げ、優美で艶やかな花を大量に咲かせ、その土地のシンボル的趣を持ち、一本桜として信仰の対象となる。写真02
三大桜
- 長寿のサクラはすべてエドヒガン。日本三大桜はいずれも地震や台風など自然災害に傷ついたが、樹齢1000年を越す大木。それぞれが今でも信仰の対象となっている。
山高神代桜 山梨県北杜市
樹高17m、幹回り11mで日本最大。推定樹齢1800年以上とされる。エドヒガン。山梨県武川村の山高神代桜は往時の高さ30m、枝張り30mの日本最古にして最大の桜。現在、枝の半分は朽ち落ち、圧倒されるような大きさこそ感じられないが、老いてもなお花を咲かせる姿には心打たれるものがある。
根尾谷淡墨桜 岐阜県本巣市
樹高16.5m、幹回り役10mのエドヒガン。推定樹齢1500年余。エドヒガン。淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹高16.3m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。宇野千代さんが保存運動。
三春滝桜
- 三春の滝桜は最大のベニシダレである。薄紅の花が流れ落ちる滝のように咲く。三大桜の中で一番勢いがある。樹高12m、根回り11m、樹齢1000年以上。
- 奈良時代から家の角に一本の桜を植え、悪霊を寄せ付けない結界とした。秋田県の角館の武家屋敷がそうだ。枝垂桜が家の庭先に植えられ、春ともなれば屋敷の通りは桜のトンネルになる。この桜が結界なのだという。明治になってから小学校の校庭に桜を植えたのも、同様に聖域を示す意味があった。
*結界 一定区域を限り、区域に仏道修行の障害となるものの入ることを許さないこと。
6、近世 群桜の花見
- 豊臣秀吉は大勢引き連れ、吉野山で4夜5日の宴を開いた。京都醍醐寺で花見をするため、近隣から桜木を700本取り寄せ植えもさせた。京都でこの頃から商人や職人など庶民が花見を楽しむようになる。
- 元禄時代から江戸では花見が盛んだった。江戸の町に群れ桜が出現する。
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉 - 江戸時代、花見の娯楽性は増す。江戸の人は身分に関わりなく、花見と酒を楽しんだ。花咲いて八百八町酔いたりな
- 上野の桜は、寛永寺が建った際に植えられたとされる。花見に寛永寺ばかりが賑わうのは、江戸に「有楽の地」が乏しいからと考えた吉宗は、庶民のための遊園開発を進めた。飛鳥山に1200余本のサクラを植えた。また100本のサクラを隅田川の東岸に植えさせ、庶民に開放した。花見の大衆化が進む。江戸の花見のお手本はあの吉野のサクラである。
7、オオシマザクラ
- バラ科サクラ属。自生は伊豆諸島、伊豆半島などで野生化。花は直径3~4cm、普通白色で、白色で淡いピンクがかかることがある。ヤマザクラよりやや大きく、かすかに芳香のあるものが多い。写真03
- サトザクラはオオシマザクラを基にして開発された園芸品種の桜の総称。見栄えのするものを選んで作られる。増殖は接木によって行われる。200種以上ある。
- オオシマザクラは鎌倉と深い関係がある。鎌倉期に鎌倉に自生していたオオシマザクラを栽培され、東西の要地でオオシマザクラが植栽され、様々なサクラと交配された結果、数々の栽培品種が生まれた。サトザクラである駒繋、普賢象や御車返が現れたのは室町期であるという文献がある。写真06
花開く江戸の園芸
・江戸時代の園芸は完成の域に達していた。その園芸技術は世界的に見ても最高水準で、様々な個性的なサクラが作出されてきた。江戸期のサクラ文化は依然として多様性の中にあった。
・幕末に訪れたイタリア通商使節のアルミニオンも、「日本人は花が大好きで、花屋は街中を売り歩き、貧しい人の住む地域でも確実に買い手を見つけることができる」と花好きの層の厚さに驚いている。
・とりわけサクラにかける情熱は高かった。現在の名桜と呼ばれる園芸品種は江戸期に作出したものが多く、江戸期のサクラが花開いている。
8、ソメイヨシノの登場
- ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種である。「ソメイ」は染井、かつての江戸駒込染井村(東京都豊島区駒込)から広がったからである。
ソメイヨシノはすべてクローン
- ソメイヨシノには種子から育った樹木はない。すべて接木によって育てられる。親の形質をそのまま受け継ぐ複製である。これを「クローン(栄養繁殖)」という。
- ソメイヨシノは吉野のサクラを意識して開発された。一斉に咲くことも量感を演出する大事な要件である。ぱらぱらと咲いてはならない。そして一斉に散る。写真07
近代 捻じ曲げられたサクラ・ソメイヨシノ
- 靖国神社は1869年明治天皇の布告により、創建された。その境内にソメイヨシノの森が出現したのは明治20年代。日本は一つのサクラに覆われていった。潔く散るサクラが美辞麗句に覆われ、政治言語が審美言語に置き換えられていった。
- 和辻哲郎が昭和初期に「桜」について、歴史的に綿々と続く日本人の心情の象徴を桜とする。その気質とは「古来の日本人の気質を高揚しやすいが、それを執拗に長続きさせない」「パッとした華やかな人生を過ごし、パッと散って行く死に方を尊ぶ」。わずかな歴史しかないソメイヨシノの短い春をここでは日本古来の自然のように語る。「同期の桜」の歌声がこだまする。1930年代には、靖国神社は軍国主義イデオロギーの象徴の空間になっていった。(佐藤俊樹『桜がつくった日本』岩波新書)
- 特攻隊員の多くは、軍服に桜の枝を飾り、死に向かって飛び立っていった。特攻隊員を含めて第二次大戦で桜と散った兵士の数は260万人。死んだものが靖国の桜になって戻ってくるはずはない。
- しかし、日本の歴史あるサクラは荒廃していき、絶滅する品種も出てきた。
荒川堤
- 明治期に入ると従来の桜の栽培は減少した。江北村(現東京都足立区)長であった清水謙吾はこれを憂い、78種3225本の桜を江北村から西新井村にわたって植えた。江戸期のサクラの栽培品種を揃えた所は他になく、荒川堤は栽培品種に関する中心地になった。この荒川堤から日米親善の証として、ポトマック川の河畔に桜の苗木が贈られた。現在に見られるサトザクラの多くは荒川堤に保全され、現在に伝えられているサトザクラは多い。
席巻したソメイヨシノ
- 日本は次第に一つのサクラに覆われていった。サクラに描くイメージは江戸と明治を境として、多様性から単一性へと塗り替えられていった。現在、日本のサクラの8割がソメイヨシノである。
- 単品種集中型というのは生態学的にはかなり危ういやり方だと分かる。
9、サクラの多様性
- 隅から隅まで同じ単一色のサクラで埋めるあり方は不自然と思われる。サクラのあり様は多様性にあるからである。自家不和合が働き、サクラ自体、個性があり、同種であっても均一ではない。
- サクラの花にはハナバチなどの昆虫やメジロ、ヒヨドリが蜜を吸いに集まる。サクラのなかまはほかのサクラの花粉と交配しないと種子をつくることができない。このような樹木では昆虫や鳥が花粉の運び屋としてサクラの繁殖を助けているのだ。
- 初夏には小さなサクランボが成り、子育中の野鳥の餌になる。やってきた野鳥は毛虫など昆虫も食べてくれる。ヤマザクラは林の多様性を豊かにする樹種である。果実が熟すとヒヨドリなどが餌として食べ、糞と一緒に種子を散布する。散布された種子は冬の低温を受けると休眠から覚めて、春になって地温が5~10度になると発芽する。温帯の季節変化に適応した樹木だ。その意味では極めて日本的な樹木。
日本人にサクラがある
- 貴族たちを捉えていたのは舶来のウメ。しかし大衆に寄り添っていたのは依然としてサクラであった。
- 円山公園枝垂れ桜は樹齢80年、高さ11m、桜は現在二代目。江戸時代から祇園のサクラとして名高い。
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき花見のお酒を飲み、ほんのり桜色の顔をした人たちと行きかう。「美しき」という言葉をあえて与謝野晶子は使う。生に肯定的で寛容で、人と人との一体感が感じられる。写真08
- 俳人の黒田杏子(ももこ)さんは広告会社の社員であったが、20代の最後に会社を辞して句作の道に立ち戻った。黒田さんは単独行で、桜巡礼を始めた。自然に回帰しようとしたのである。そして桜に守られて40年経ったという。
黒田さんは桜に「逢いにいく」という。「逢う」は逢引の「逢う」である。黒田さんが逢いに行く。動かない桜も逢いに来てくれる。桜は黒田さんに歩み寄り、さまざまなことを語りかけてくれるのだろう。
幸い、日本には語りかけることができる、桜に象徴される自然がある。私の生命を自然の生命と重ねあい、感受性を豊かにしたい。そのことが生きていくこと。
そうだ、私も桜に「逢い」に行こう。 - 幸い、日本には語りかけることができるサクラがある。見ている人に向いて咲く。サクラの生命と私の生命を重ねあい、感受性を豊かに生きたい。それが豊かな生き方、そして幸福。
そうだ、この春もサクラに「逢い」に行こう!
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