2021.9.1.
北村 光一(Dクラス)
『東所沢にオオカミが来た』
昨年11月、私の住む東所沢の地にオオカミが現れました。
東所沢地区は40数年前の区画整理によって開かれた新興住宅街地だけに歴史や文化の情緒に乏しかったのですが、一昨年のKADOKAWAアニメ文化複合施設「さくらタウン」の開設によって多くの人々が訪れるようになり、街そのものに潤いが漂うようになりました。一住民として大変嬉しいことです。
ところが私にとってはアニメよりもカドカワの施設内に誕生した武蔵野令和神社のオオカミの方が気になって仕方がありませんでした。隈研吾さん設計の近代的な神社本殿の左右に「神の使い」として二匹の木像ニホンオオカミが鎮座しているのです。月次祭(つきなみさい)に参列するたびに「一体どうして東所沢に・・・」 と思っていました。
そんな時に東秩父村在住の版画会の会長から秩父長瀞の宝登山(ほどさん)神社で個展を開かないか?との話があり、完治しないガンを抱えての版画総決算にはこの上もない場所だなと考えて喜んでお受けしました。説教癖や仕切りたがりが人を遠ざけてしまうのは世の常です。そんな自分の変革を願って40年近く散策してきた地でもありましたので・・・。仏像版画と神社の相性については宮司から「うちは敷地内の玉泉寺とともにずっと神仏習合を貫いてきましたからお気になさらず」とのお話を頂いてほっとしたところです。
こうして今年6月下旬に開催した個展そのものはクラスターの発生もなく、えっ!と思うほどのご来訪も得て無事終了できました。掛替えのない一生の思い出になりました。またテクノ大手に長年勤務された長瀞法善寺のご住職高桑さんのご来場は思いも掛けないことでした。法善寺は長瀞七草寺のひとつ(藤袴の寺)で、しだれ桜の寺としても有名なのです。これから訪ねるお寺がひとつ増えました。
もう一つ思いがけない収穫はオオカミとの距離が近付いたことでしょうか?宝登山神社では今も山に棲む?オオカミに食事を奉げる「お焚き上げ」が毎月7日の早暁に行われていたのです。青梅の御嶽神社、秩父の三峯神社はじめ関東平野の水源である秩父山塊に広がるオオカミ信仰の神社では境内にオオカミ像が鎮座し、オオカミの姿が摺られたお札(お犬様のお札)が頒布されているのです。ニホンオオカミは縄文の頃から本州・四国・九州に生存し、農業や山に生きる人々と様々な関係を持ってきたようです。
人々がニホンオオカミを神として崇めた最大の理由は、田畑を荒らす野生動物を捕食して農業を守ってくれたからだといわれます。害獣の代表、イノシシは胃袋が一つなので、繊維質の植物は消化できないので根菜類を荒らし、反芻できるシカは稲を食い尽くしてしまいます。このような状態は昔の今も変わりません。母の実家(青梅の奥)では育てる傍から野菜や果実が食い荒らされ、定期的にプレーする飯能パーク・ゴルフでもスイングを終って振り返るとすぐ後ろでシカが悠然と草を食む風景は今も日常茶飯事です。これではいつまでたっても人々は害獣のために農業に勤しんでいるようなものです。山に生きる人々がイノシシを倒せる猛獣の如き強力とシカを追い詰める敏捷さを持ち自然界の食物連鎖の頂点に立つニホンオオカミを神として崇めたのも無理からぬことです。こうしてオオカミは時に「大口真神(おおくちのまがみ)」として崇められ、時には人々から恐れられつつ、1905(明治38)年吉野山中での捕獲を最後に絶滅したとのことです。それでも何処にでも熱烈なファンはいるもので、近年でも秩父や大分で目撃したとか写真を撮ったとの噂も絶えないそうです。
実は不思議なことがあります。オオカミ信仰は全国に広く分布しますが、なぜか日本の神話や寓話にオオカミは登場しません。関西地区にもオオカミはいた筈ですが、京都や奈良の神社の神の使い(眷属)にも出てきません。春日大社はシカ、伏見稲荷はキツネ、日吉神社はサルのように・・・。また敵対視もされていません。外国ではイソップ物語やグリム童話にオオカミは悪の権化のように描かれますが、日本ではそんなこともありません。
「クマ山騒げ、イヌ山黙れ」・・クマは音で逃げますが、オオカミは人を怖がらず、人の声が聞えると近づいて来て家の近くまで送ることがあったそうです。人々はこのことを送り狼と言って恐れたり、逆に送って貰ったと親しんだり、何とも不思議な一面を持っています。オオカミ信仰は国家中枢の権力や文化とは縁遠い自然に生きる人々その心の中に育くまれたのでしょうか?
今、私たちはどうしても近代的な都市機能や生活を優先して仕舞いがちですが、昨今の益々厳しくなる自然現象や温暖化に目を向け、自然そのものを振り返る必要があるのではと宮司はおっしゃっていました。
新型コロナウイルスも私たちホモ・サピエンスよりもはるか太古の昔からヒトなどを介して生き延びてきた姿なのでしょう。地球の歴史からすれば私たちは全くの新参者です。とすればウイルスは「自然そのもの」なのかも知れません。
とすれば、カドカワ武蔵野令和神社のニホンオオカミに疫病除けとしてウイルスを蹴散らす役割を願うのではなく、私たち自身が生き方や考え方を自然に近づけていくことをオオカミから学ばなければならないのかも知れません。
最期に曽根原宮司から宝登山神社に江戸時代から伝わる「お犬様のお札」の復刻要請を承りました。版画の個展から始まり、お犬様(オオカミ)のお札(版画)に至る・・・これもお犬様の功徳でしょうか?
以 上